2007年07月12日
【書評】 幻詩狩り
アンドレ・ブルトンを登場させ、フランス語で書かれた詩をテーマに、日本語で小説を書くというのは、相当勇気のある行動です。少なくとも、日仏双方の語学に堪能であることが必須条件であり、それが読者にも感じられる必要がある、と思うのですが…。
読者を時空の彼方に飛ばしてしまう力を持った詩と、それに魅せられた人間たちを、権力者たちが、文字通り「狩立てる」というのが、この作品の粗筋です。焚書という行為は、秦の始皇帝で有名ですが、禁書という行為は、同じ中国の戦国時代から既にありました。近代になっても、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が、各国で長い間禁書の扱いを受けたのは知られていますし、第二次大戦後にいたるまで、カトリック教会には禁書というものがあって、サルトルの著作なども名を連ねていたものです。したがって、特定の本を「狩立てる」のは、為政者がよく考えつくことのようで、人類の歴史では珍しくないことなのですが、この本の元ネタは、やはりブラッドベリーの『華氏451』でしょう。作中に、冒頭だけですが、いわゆる「人間本」が登場してくることからも明らかですが、広く解釈すると、書物を読む(映画や演劇もそうですが)という行為は、つかの間の「異界」にひたる行為でもあるので、一篇の詩にそういう「トリップ」を代表させているのかもしれません。しかし、なぜフランス語の詩なのでしょうか。そもそも、詩というものは翻訳するのはほぼ不可能だろう、という思いが、個人的には強くあります。詩の意味は訳せても、オリジナル言語の音の響きやニュアンスまでをも伝えることは、相当難しいと思います。まして、日本語とフランス語のように、全く異なる言語ですと、どちらからどちらへ訳すにしろ、普通のバイリンガル以上に特別な資質と教養のある人間の手にかからないと、読むに耐えないものができる可能性が高いのです。当たり前ですが、日本語は日本語として、フランス語はフランス語として理解するのがベストです。
翻って、この作品ですが、最大の不満は、そういう翻訳の困難さなど全く存在しないかのように、ストーリーが展開されることです。フランス語で書かれた詩を、日本語に訳しても、単純に同じ魔力を保てる、という展開自体が、極めて安易なように私には思われます。
次の不満は、オリジナルの詩、つまりフランス語で書かれた部分が全く登場しないことです。日本語の翻訳のさわりだけが紹介されているのですが、『時の黄金』という詩のタイトルのフランス語が出てくるだけで、オリジナルの中身は一切示されされません。特に、「ドゥバド」という一種の呪文である重要なキーワードが、どのような綴りなのか提示されていないのです。これに近い音となると、私の貧弱な知識で思いつくのは、deux bateaux 「ドゥバト」(2隻の船)ぐらいですが、推理小説でないにしろ、謎解きの要素で引っ張るSFである以上、これは本来重要な要素たりうることなので、これでは極めてアンフェアではないでしょうか。あるいは、単に音の響きだけで選んだのでしょうか。フランス語の発音を、日本語のカタカナで正確に表現することなど、絶対に不可能なのではないでしょうか。
また、詩の作者の名前、フー・メイWho May ですが、日本語の「不明」に引っ掛けた駄洒落にすぎない気もするのですが、この音自体は、hとfの差はあるものの、フランス語のフー・メ Fou Mais 「狂っている、しかし」を連想させ、それなりに面白いとはいえ、この英語の音が、フランス語の何を連想させるのかの言及が全くないのは、なぜでしょうか。もし、作者が全く気付いていないとしたら、大変失礼ながら、語学知識的にそもそもこういうテーマを扱うのはいかがなものか、と思わざるをえませんし、もし気付いていたとしたら、なぜ読者に提示しないのか、と思います。
要するに、フランス語の詩という中心モチーフがあるにもかかわらず、フランス語を語ることがほとんど無いという点に、大変なフラストレーションを感じながら、ずっと読んでいました。もっとも、そのフラストレーションに後押しされたので、最後まで読めたのかもしれません。
それと、作者自身のあとがきに、「この運動(シュールレアリスム)に関わった人物の中で、筆者は、親分格とされるアンドレ・ブルトンの尊大さに、いささかの反感を覚えていた。そこで、そんなブルトンに、寒いパリのカフェで待ちぼうけを食らわせてやろうという密かな企みが、実は、前記場面に込められているのである」とありますが、ブルトンの作品を批判することは誰にも許されることとはいえ、作品を批判することと、作者を批判することは、全く別の行為だと私は理解しています。つまり、ブルトンのことを尊大と呼ぶことのできる人間は、そうはいないはずなのです。したがって、この部分には納得いかないものがあります。
以上、色々と批判してしまいましたが、この本の一読者としての私にとって最大の不幸は、ガルシア=マルケスの『族長の秋』を読んだ直後に、これを読んでしまった、ということなのかもしれません。かって、ウィリアム・フォークナーは「どんな作品に影響を受けましたか」という問いに対して、「私はどんな文章にも影響を受ける。毎日読む新聞にさえ、影響される」と答えたことがあります。もちろん内容は違うのですが、時空を超えるストーリー展開という共通点を持つ二作を立て続けに読んでしまい、その描写力の歴然たる差を否が応でも感じてしまったのが、辛い評価につながっているのかもしれません。だとすれば、その点はお許しいただきたいところです。
(hacker)
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