2007年05月01日
【書評】 陪審法廷
正義と罪と罰...が主題だったはずなのですが...
作者の意図としては、一人の15歳の少年が養父にレイプされ続けている少女を救うために犯した、止むに止まれぬ殺人をめぐって、アメリカと日本の法律の差から、正義が何なのか、法は万能なのか、ということを問いたかったのかもしれません。作中にも述べられていますが、アメリカですと、このケースで第一級殺人にて有罪ならば、終身刑務所(減刑が可能な日本の終身刑と違い、正に死ぬまで出所できません)の人生が決定され、無罪ならば、そのまま普通人の生活に戻れます。その決定を行うのは、原則無作為に選ばれた12人の陪審員たちです。日本の場合は、もちろん裁判官が有罪無罪を決定しますが、基本的には少年法が適用されるので、終身刑務所のような重い刑が科せられるはずもありませんし、刑の内容については、裁判官にかなりの裁量が許されているように思えます。陪審員の一人である、アメリカ男性と結婚した日本女性は、この日米の差を知っているが故に悩むのです。私も色々な文化に触れるチャンスに恵まれながら、ここまで生きてきましたが、異文化と接する場合、重要なことは、異文化では認められていることがどんなにおかしく思えても、それなりの理由がある、ということを知っておくことです。アメリカの陪審員制度は、個人的には、司法部門の責任逃れ、つまり裁判官が自ら判断を下すことを回避しているのではないか、とも思えるのですが、成文化した法律が世間の実体からかけ離れた場合、そこから離れた自由な発想で、判決を下せる、というメリットもあるのでしょうし、映画『評決』で描かれたように、裁判官に決定権を持たせると、裁判官によっては、偏見を持った判断をする可能性もあるので、それの排除という目的もあるのでしょう。もう一つ、この制度で特徴的なのは、判決は12人全員一致でなければならない、という点です。この辺の事情は、映画『十二人の怒れる男』を観るとよく分かりますが、無作為に選ばれた12人の人間が同一意見を持つなどということは、実生活においては、議論の余地がないくらい明白な事実に対してでないと起こりえません。むしろ、意見が割れて、当然ではないでしょうか。そして、本書の事件もそうなのですが、そういう場合は、誰かが陪審員の間でキャスティング・ボードを握ると、その人間の意図する方向に流れる可能性が高いのだと思います。『十二人の怒れる男』の場合は、一人だけ無罪を主張して、残りの人間を一人一人ロジカルに説得していく様子が克明に描かれるのですが、そこまで自己主張できる人間は、やはり少ないでしょう。人間だれしも、自己の利害若しくは責任に係わってくることに対しては、なかなか主張を曲げませんが、直接関係のないと思える事柄に関しては、簡単に「妥協」したりするのは珍しくありません。裁判というものは事実を争うものである、という大原則がある以上、それで良いのか、と読みながら考えてしまいましたが、結局読者にそう思わせてしまうことが、本書の最大の弱点ではないでしょうか。
要するに、アメリカの陪審員制度と法制度の批判が目的でこの本が書かれているように、読めるのです。そういう意味からは、本書が日本語で書かれ、日本で出版されていることにも、どこか違和感があります。アメリカの制度の是非を問いたいのなら、やはり米語で書いて、アメリカで発表すべきではなかったのでしょうか。欧米社会で最も大切な「フェア」という概念からも、その方が良かったのだろうと思います。もっとも、冒頭で述べたように、それが作者の意図だったとは思わないのですが、作品は完成と同時に作者の手から離れる訳で、私がそう感じるのは仕方のないことです。力作ではありますが、そういう点に不満が残りました。
(hacker)
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『【書評】 陪審法廷』についての意見(トラックバック)
1. 「陪審法廷」読みました。
[ Gori -ふどうさんやのおやじ- ] 2007年05月02日 09:17




